英語で会話する親子、スマホをイジる親子【人間観察、偏見と予防】

人生の話

休日の午後、とあるカフェにて。いつものように窓際席に座り、ブログ記事をまとめつつ窓から人間観察をしていると、店内から楽しそうな話し声が聞こえてきました。

向かい合ってテーブル席に座っている親子(親娘)。日本語と英語を織り交ぜて、笑いながら楽しそうに会話していました。

お子さんは小学生くらいかな?私は英語が分からないのですが、それでもすごくナチュラルだなぁと思うレベルで話していました。幼い頃から英会話レッスン等をやっていたんでしょうね。英才教育というやつでしょうか。親子ともども立派だなぁと非常に感心しました。

お母さんの方は時折日本語で話していましたが、お子さんはそれにも英語で返します。日常的に英語を使うことを勉強の一環にしているのかもしれません。日本語を聞いたあとで英語の返事ができているあたり日本語の理解もあるのでしょう。凄いです。

私の席からは距離もありましたし英語で話していたので何を話しているのかは分かりませんでしたが、声のトーンや表情から楽しそうにお話しているのは分かりました。とても微笑ましい家族の絵。なぜかこちらまで幸せな雰囲気になります。

 

別の日。

 

前とは別のカフェで、前とは別の景色が目に映りました。

これまた一組の親子(親娘)。お子さんは小学生くらい。向かい合ってテーブル席に座っていました。

お母さんはずっとスマホを見ていて、ほとんど会話はありません。たまにお子さんからの声に返事をしても視線はスマホに釘付けです。

お子さんはご飯?に手をつけていましたが、たまに独り言のようにお喋りしつつも、足をぷらぷらさせながら黙々とご飯をつつき見つめる様は、少し寂しそうに映りました。

 

別に、何か文句を言いたいわけではありません。

 

人それぞれ、家族それぞれです。その日の機嫌だったり、喧嘩していたり、それまでの過程、背景も様々でしょう。たまたまそんな日だった、普段は仲良しである、ということもありえます。

ただ、「他人のことなんて、そういった一部分や一瞬しか知らないことがほとんどで、それでどんな人なのか判断するしかないことがほとんど」なんですよね。上辺しか知らないのが当然なわけで。知らない情報で判断はできないわけで。

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ちょっとだけ別の話をします。

「人は見かけによらない、偏見はよくない」という話。それに違和感を感じた話。

2ちゃんまとめだったかな。どこかのサイトで投稿されていた話なのですが、

「子供の幼稚園の送り迎えのとき、ひときわ目立つヤンキーのようなママさんがいた。他のママさん達はほとんど近寄らず、ヒソヒソ陰口を叩く者もいた。

投稿者のママさんはなにかのキッカケで話をするようになり、そのヤンキーママさんがとても良い人であることに気づいた。そのヤンキーママさんと知り合ったことで得られたものは多く、陰口を叩き近寄ろうとしなかった他のママさん達は損をしていると思った。偏見はよくない。」

という感じの内容でした。

その投稿に寄せられた反応コメントもだいたい好意的なもので、偏見はよくないよね、見た目で判断しちゃいけないよね、という意見が多かったのを覚えています。私も、偏見はよくないと思います。

ただ、少し引っかかるところもあったのです。

「偏見」と「予防」の違いではないか、と思うのです。※予防という単語の使い方は合っていないかもしれませんが、適切な単語が浮かびませんでした。

 

「外見は言葉以上に物を言う」、といいます。「君子危うきに近寄らず」とも。

 

タラレバ、カモシカの話にもなりますが、もしかしたらその見た目ヤンキーのママさんは本当にヤンキーで、暴力・薬・タバコ・酒など素行が非常に荒い人かもしれません。裏ではより危険な人と関わっているかもしれません。

関わってしまったことで脅迫されたり、金を要求されたり暴力沙汰に巻き込まれてしまうかもしれません。自分だけでなく子供や家族が、悪い方向に進んでしまうかもしれません。

あくまでも「かもしれない」の話、「可能性」の話です。

しかしそれを未然に防ぐためには、見た目の印象から判断するしかありません。「上辺」だけです。仲良くなってからでは遅いかもしれない。

自分や子供を守るため、未然に予防するために得られた数少ない情報から「関わらない」ことにした他のママさん達は決して悪い判断をしたわけではないと思うのです。※ヒソヒソ陰口を叩いたのは100%悪いと思うけど

例えば前科ありの人間に関わろうと思う人は少ないと思います。それは偏見ではなく予防や自己防衛のためですよね。仲良くなれるかもしれない。でも被害を受けるかもしれない。

上辺だけで判断するしかないことも、そしてそれが悪くないことも、あると思うのです。

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親子の話に戻しましょうか。

ろくに話をしない親子について、子供に寂しい思いをさせるのはよくない、将来に与える影響はどうなるのか、などの点は今回は置いておきます。

スマホをイジって子供を放置することなんて、スマホが当たり前になったこのご時世どんな家族・家庭にもあることだと思います。時間の長い短いの違いだけで。でもそれを外で、おおやけの場で、やるのは良くないと思うのです。

「子供を放置してスマホをイジる親」は、どうあがいても「悪い親」として受け取られる気がします。どんな理由があろうと印象が悪い。その人を、好意的に受け取る人間なんて一人もいないでしょう。

他人の目を気にしすぎとかそんな話でもないですよね。「私は他人の目なんて気にしない。だから酷いことだって普通にやる」なんて理にかなっていませんし、ただ頭がおかしいだけです。

外っつらが良いに越したことはないと思うのです。たとえ猫被りや偽りであっても、偽善は善です。

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ここまでがその時カフェで私が感じたこと。いろいろ頭の中で考えて思ったこと。

でも、家に帰って寝て、翌朝メモを覗いてふりかえってみるとまた違うのです。考えが固まってないというわけではなく、客観的になれるというか。

家で休みなく働いて一息つく暇もなく、休みの日にカフェに行ってもお子さんの世話をする母親に、「ちゃんと子供の面倒見てやれよ」なんて誰が言えるだろう。

でも、それこそ誰にも見えない内面の話であって、上辺しか見えない他人には考慮のしようがない事なんですよね。

きっとSNSなどで声を上げる母親の皆さんが言いたいのは、見てもらいたいのは、知ってもらいたいのは、この内面の話なのだと思う。

専業主婦は時給換算すると月の給料が凄いことになる、とか。なにも知らない人からすると「何をバカなことを。ずっと家にいるのに」と思うものかもしれませんが、実態は大変なのでしょう。しかしその実態が伝わらず、スマホイジりが伝わってしまうのが現実です。声をあげる女性をヒステリックだと切り捨てる人がいるのもまた現実でしょう。

 

考えれば考えるほど沼にハマりそうな、面倒くさくなってくるような。問題が分かっていても対策にたどり着けないような。ブログやSNSに書いたところで何も変わらないような。

そんな異なる親子の景色を見て、その背景や現実を勝手に思って、久々に人間観察って面白いな、考えさせられるもんだなぁと、すこし心がキュッとした元受給者でした。

受給者だったころの私はどう見られてたんだろう。社会人だったころ、生活保護受給者のことをどう思ってたっけ。

外っつらと上辺。良くする必要はなくても、悪くはならないように気をつけよう。気にしすぎない程度に。

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